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「奥備後・比婆の街から」

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「奥備後・比婆の街から」
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備後東城のYAPPONによる随筆集です。
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ほろんちゃんといっしょ#3 春の川鳥 花めぐり 2017.4.23

2017/04/28 06:01
 冬の寒さで開花が遅れていた備後東城の里の桜も、東城三大山桜の満開でフィナーレとなりました。

 4月23日の日曜日は朝から素晴らしい晴天でしたので、お通りアイドルのほろんちゃんを連れて、東城町川鳥地区を歩いてみました。
 東城の街ではすでに散ってしまった桜の花も、標高が高い松が垰・桜ロードではまだ満開でしたので、ご覧ください。


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 川鳥の皆さんの不断の努力で、その素晴らしさが桜のようにまさに花開いていました。
 東城三大山桜は毎年マスコミにも取り上げられて、広島県を代表する庄原市東城町の桜の名所となりましたが、この松が垰桜ロードもそれに続くことになるでしょう。

 広い庄原市東城町には、他所の人にはまだ余り知られていない素晴らしい場所があると思いますので、ほろんちゃんとともに訪れて、映像にしていきたいと思います。(売り込み歓迎)

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PHSよ、さらば!

2017/04/22 17:08
 東城も4月後半となって東城川沿いの桜も散り、標高の高いところにある東城三大山桜の満開へと移っていきました。

 私用携帯電話とモバイル通信手段として、17年にわたりPHS電話機を使い続けてきましたが、近年のケータイサイトの激減とPHSが高速通信サービスへの対応ができなくなったことから、2017年3月を以てPHS電話機の契約を中途で打ち切り、割賦契約残金の二万円弱を払って、同じY!mobileのスマホであるシャープのAndroid One S1へ機種変更しました。

画像
 写真は手元に残るPHS電話機3台です。左から、元祖スマホとも言える Advanced w-zero3 [es] WS011SH、ストレート型PHS電話機の HoneyBee WX07K、最後となった折りたたみ型PHS電話機 CRESTIA 402KCです。

 自分の最初の携帯電話としてPHS電話機を契約したのは2000年頃で、三洋電機製のRZ-J90でした。
 PHSは当時から東城市街地内でしかつながらないのですが、自分の場合通話よりもパソコン宛メールを自動転送してのメール確認や、ノートパソコンをつないで出張・外出時におけるパソコン通信やインターネット閲覧のためのデータ通信手段としての用途を重視して、あえてPHSを採用しました。
 その後、二度目の大阪本社勤務の時には、社宅でのインターネット接続手段として、コンパクトフラッシュ型Air-EDGEカードAX420Nを追加契約して、当時持ち歩いていたPDAシャープザウルスに挿して通勤電車の中でニュースや掲示板を読み書きし、社宅に帰ったらノートパソコンに差し替えてインターネットを見たりと、いつでもどこでもネット接続を実現していました。当時のPHSのデータ通信契約は、32kbpsと低速ながら定額で使い放題だったので、まだ動画サイトなども無かったことから、遅くてもそんなに困ることはありませんでした。

 PHS電話機の方はRJ-J90→H-SA3001Vへと機種変更後、2008年にはスマホのご先祖様とも言える名機 シャープAdvanced w-zero3 [es](略称:アドエス)に機種変更しました。
 アドエスは電話機・PDA・カメラが一台に凝縮されたPHS電話機で、PHS電波が届いている場所であればいつでもネットに接続して情報検索ができる自由を得ることができ、内蔵カメラで撮影した写真をメールで送ったりネットで発信したりと、今の私がやっている外出先からの情報発信を始めるきっかけになりました。
 また、収納式QWERTYキーボードがボタンが小さくて指の大きな私にはちょっと打ちにくかったものの、テンキー日本語入力よりは文章入力がしやすくて、メールの返事やブログコメントへの返答、掲示板への書き込みには重宝しました。
 また、前の愛車ホンダインサイトのインターナビの通信手段としても、PHSデータ通信USBを契約していました。

 私のモバイルコンピューティングの大きな戦力となっていたPHSでしたが、インターネットの世界が動画配信など大容量高速通信へニーズが移る中、PHSは高速通信への対応が遅れ、PHS専業のWillcomは経営破綻してソフトバンクに救済してもらうことになり、PHSはY!mobileブランドの一サービスに衣替えして存続していくこととなりました。
 そのため、出先での通信手段は、PHSからIIJmioのSIMを入れた3G無線ルーターとタブレットを組み合わせて使うようになり、通話とメール確認用に私用PHSと社用FOMAの2台のガラケーを併用していたものの、最近の携帯電話向けサービスはスマホを前提としたものが主流となってしまったことから、ついにPHS電話機の継続使用を断念し、スマホへ機種変更するに至りました。

 Y!mobileのPHSサービスも2018年3月31日をもって新規受付や機種変更も終了するとアナウンスされ、ついにその役割を終えることになりました。
 私のモバイルコンピューティングにおけるPHSの果たした役割をここに記し、その功績を称えたいと思います。

 ありがとう、そしてさようならPHS・・・
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ほろんちゃんといっしょ#2 東城まちなみ春まつり

2017/04/02 07:17
 備後東城の里は四月を迎えましたが、春への歩みは例年になく遅いようで、三月末日には結構まとまった雪が降りました。

 三月最後の日曜日、春恒例の東城まちなみ春まつりをほろんちゃん人形とともに撮影して廻りました。
 撮影前日まで出張で不在にしていたため、作品公開が春まつり期間に間に合いませんでしたが、とりあえず今年の記録としてご覧ください。


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 ほろんちゃん人形を連れて撮影していると、あちこちでほろんちゃんのことを聞かれ、そのたびに説明していたのでいつもより時間がかかってしまいました。
 ほろんちゃんの知名度もまだまだこれからといった感じでしたが、「ほろんちゃんといっしょ」シリーズで知名度アップを図りたいと思っています。
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ほろんちゃんといっしょ#1 ためしげ福寿草まつり 2017.3.19

2017/03/20 17:29
 「暑さ寒さも彼岸まで」のことわざ通り、3月後半となった備後東城の里も春を思わせる暖かい日が増えてきました。ただ、この辺には「彼岸過ぎて七雪」という言葉もありますので、この冬が雪が多くかなり寒かったので、まだ寒の戻りには気を抜けないでしょうね。

 東城の春の訪れをいち早く告げる福寿草の花を地区の皆さんで大切に育てている久代為重地区で、恒例の「為重福寿草まつり」が開かれていました。
 これまで通り単に花の写真を撮るだけでは面白くないので、今回からは備後東城「お通り」のアイドルキャラクター「ほろんちゃん」の人形を持って行って花と一緒に撮り、ほろんちゃんが福寿草まつり見物をしているような映像作品にしてみました。


[ YouTubeで再生 ]

 最近は多くの方々がスマホや一眼レフカメラで、東城近辺の素晴らしい写真を公開されており、自分の写真にも限界が見えてきましたので、しばらくは『ほろんちゃんといっしょ』をシリーズ化して、これまでとは違った方向から備後東城の里を取り上げていこうかなと思っています。
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醸造の里 東城

2017/03/10 01:27
 まずは、この映像をご覧ください。


[ YouTubeで再生 ]

 前に車で街なかを通った時、何か大がかりな撮影をやっているなぁと見かけたのですが、この映像の撮影だったようですね。
 短い映像の中で、東城の伝統の味を受け継ぐ人々の言葉にスポットを当てて紹介しています。
 「醸造の里 東城」という当地を表す言葉がまた一つ増えました。
 百年を超える東城の老舗の人々が生み出す味を、ぜひあなたの舌で確かめてみてください。
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2017年の天領上下ひなまつりを見て歩く

2017/03/04 16:41
 「1月は行く、2月は逃げる、3月は去る」との言葉の通り、異常に暖かかった正月が終わり、1月後半から2月にかけて何度も寒波が襲来して大雪が降り、週末自宅に足止めを食らってお出かけできなかったら、あっという間に3月が来てしまった感じです。ブログ記事も2月は追加無しで終わってしまいました。

 2月も下旬となってようやく寒さも緩みだしたので、2月最後の週末に府中市上下町で始まっていた「天領上下ひなまつり」をデジカメバッグを抱えて見て回ることにしました。
 沢山撮影した画像と動画を合わせて映像作品にまとめましたので、ご覧ください。


[ YouTubeで再生 ]

 上下のひなまつりは、2010年に母と姪を連れて観に行って以来だったのですが、雛飾りの展示がさらに多彩になっていたとともに、古い建物をしっかり残した街作りがされていて、見どころ撮りどころが満載でした。
 東城の街が空き家が次々と取り壊されて、駐車場ばかりが増えているのとは対照的でした。
 これら古い街並みをこれからも大切に残していってほしいところです。
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詩人 白鳥省吾と帝釈峡小唄の誕生

2017/01/17 17:22
 備後東城の里での盆踊りの定番と言えば「帝釈峡音頭」ですが、そのレコードの裏面に収載されてあまり脚光を浴びて来なかった「帝釈峡小唄」は、若き日の島倉千代子さんが歌っていました。

 その「帝釈峡小唄」にも知られざる踊りの振り付けがあり、昔その踊りを習ったことがある方にご参加いただき、2015年6月に行われた新緑の帝釈峡をバックに踊りを映像に残そうというプロジェクトに、私も撮影助手として参加させていただきました。
→ブログ記事 : 神龍湖畔で踊る帝釈峡音頭・帝釈峡小唄

 その後、映像の撮影と制作を行われた東城高校OBの小坂義紀さんのご友人で、元校長の和田匡弘先生が「帝釈峡小唄」が生まれた経緯を詳細に調査され、その資料をまとめられたものをいただきました。
 その一部をここに転載し、知られざる名曲「帝釈峡小唄」の誕生秘話を明らかにしたいと思います。

 まず、帝釈峡小唄の原詩を詠んだ詩人 白鳥省吾については、下記のWEBサイトをご覧ください。
ウィキペディア : 白鳥省吾
詩人 白鳥省吾を研究する会 HP

 次に、帝釈峡小唄の作詞者である赤松月船については、下記のWEBサイトをご覧ください。
ウィキペディア : 赤松月船
吉備路文学館 : 赤松月船

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1.白鳥省吾先生(以下敬称略)の詳細な動向
 (白鳥省吾研究会事務局代表 佐藤吉一氏から白鳥省吾本人の手帳を提供)

@大阪中央放送局の番組「詩の朗読と鑑賞」第4回自由詩の収録のため、昭和13年(1938)3月14日に東京を出発し関西へ。 3月16日に収録し17日に放送。
 それに合わせて、当時地元店舗や旅館の依頼により帝釈峡を観光名所として売り出すため、県議会議員で比婆郡東城町の野上民三郎と帝釈川発電所に勤務していた神石郡新坂村の真田幸作が、大阪滞在中の白鳥省吾を訪問し座談会。

A3月19日 白鳥・野上・真田の三名は、朝大阪から特急列車に乗車し、岡山から伯備線列車に乗り換え、新見駅に到着。4人が白鳥らを新見まで迎えに出る。

B3月20日 五品城址(五品嶽城跡)にのぼる。棟瓦をほる。

 ※感想の記述があるが○○などが分からず、一部しか判読できず。
  四周の山萩美し五品の昔
  木はおのゝの○決めて○○に永くのび
  選ばれたる山に
 ※以下判読不能

C3月21日 堰堤、雄橋、断魚渓見学

 ※道中記述あるも判読できず。

D東城に2泊されているが、宿泊旅館等の記述は無い。
 断定はできないが城山に登っておられることから、城山に最も近い「東城ホテル 逓信省・鉄道省指定旅館」ではないかと思われる。大正末期の街並み図では、岸氏経営で「岸 旅館」と記述されている。

E当時、「東城時事新聞」が月刊として発行されていた。編集兼発行人は松田謙氏で、現松本荘旅館主の祖父にあたる。「東城時事新聞」は当旅館に所蔵されていたが、記述されている可能性のある昭和13年4月号(第60号)が欠落されているため、事実の確定ができないままである。

2.白鳥省吾と野上民三郎・真田幸作とのかかわり

@佐藤吉一氏によると、白鳥省吾はよく広島に行っており、かねてより東城町の二人との出会いがあったものと思われる。具体的なかかわりは定かで無い。

A真田敏雄氏宅に、福島県いわき市出身の実業家・政治家である星一(1873-1851)と岩手県奥州市水沢区出身の医師・官僚・政治家である後藤新平(1857-1929)が揮毫した額がある。二人を通じての白鳥省吾との出会いは無かったか?(佐藤吉一氏は否定の見解)

3.白鳥省吾揮毫の扁額・掛け軸・短冊

@真田幸作所収の掛軸に「依嘱」と記されており、真田幸作が書を依頼されたもので、後日揮毫して届けられたものと思われる。(佐藤吉一氏談)

 扁額 「藍原にて 箒川せゝらくうへの 春の星」 <旅情カバン>
 掛軸 「おもひ堰かれりゃ 恋しさ増さ留 水も火となる夢もある」 <帝釋峽小唄>

A野上民三郎へは、短冊を渡されている。(広島在住の孫が保存)

 短冊「まゐりませうよ帝釈さまに 鐘もきゝましょ朝あけに」<帝釋峽小唄>

4.白鳥省吾と赤松月船との交流

@赤松月船と白鳥省吾との交流は一切分からない。(赤松月船研究会 定金恒次氏談)

A赤松月船は、関西を基盤として活動していたと思われる。

B日本詩集1924年版によると、新人と見なされる詩人、「赤松月船等11名」と思われる。

C関東大震災詩集「災禍の上に」(詩話會 白鳥省吾等編)に、赤松月船他49名の詩人が詩を寄せている。

D大正13年11月21日夜8時、萩原恭二郎・岡本潤・赤松月船が酒を帯びて白鳥省吾を訪ねていることが、「白鳥省吾年譜」に記されている。
 赤松月船等が省吾を訪ねたのは、川路柳虹の言を省吾の言と勘違いしたことを詫びるためであったらしいが、これは省吾ならず詩話會委員に対する不満が、詩話會の一般会員の中でくすぶっていたものを思われる。

E「詩話會」解散ののろしを最初に上げた詩人は、赤松月船と思われる。(以上、佐藤吉一氏談)

5.白鳥省吾の「帝釋峽小唄」と赤松月船の「帝釈峡小唄」

@定金恒次氏によると、赤松月船作詞の「帝釈峡小唄」のことは、記述された詩集・資料等が無く、知り得ておらず、島倉千代子が歌っていたことも知らなかった。

A佐藤吉一氏によると、白鳥省吾は昭和13年3月19日から21日まで東城町と帝釈峡を訪問しており、その時作った「帝釋峽小唄」を、自誌「地上楽園」昭和13年7月号(最終号通巻88号)の21頁に掲載している。

B定金恒次氏の考えでは、赤松月船の詞と白鳥省吾の詩にほぼ同じ部分があるので、白鳥省吾の「帝釋峽小唄」の一部を、約20年後に赤松月船が参考にしたのではないか。ただ、あまり親密な関係とは言えなかった二人でありながら、「帝釈峡小唄」の作詞をめぐって、どのような関わりがあったか定かではない。

 ・まゐりませうよ帝釋さまへ 鐘もきゝましょ朝あけに <白鳥省吾>
 ・ハアー 参りましょうよ 帝釈さまへ(チョイトネ チョイトネ) 鐘も聞きましょう 鐘も聞きましょう 朝あけに 朝あけに <赤松月船>

 ・思ひ通はす雄橋に雌橋 逢瀬遮ぎる断魚渓 <白鳥省吾>
 ・ハアー 想いかよわす 雄橋に雌橋(チョイトネ チョイトネ) 逢瀬さえぎる 逢瀬さえぎる 断魚渓 断魚渓<赤松月船>

※お囃子※
 ・トロリトセッセ サラリトセッセ <白鳥省吾>
 ・トントントロリコ トロリコセー サラリサラリコセー <赤松月船>

C白鳥省吾は「帝釋峽小唄」の冒頭で次のように記し、帝釈峡を高く評価している。

 アア西に帝釈東に十和田ノーエ ほんに日本の二つ星

6.帝釈峡音頭(歌 青木光一)と帝釈峡小唄(歌 島倉千代子)のレコード制作と発売

@帝釈峡観光協会によると、約60年前に地元関係者が観光振興へレコード制作を呼びかけたという。日本コロムビアがレコードを制作。帝釈峡音頭の歌詞には石の天然橋 雄橋・雌橋をはじめ神龍湖の遊覧船など名所が織り込まれ、地域の盆踊りや祭に徐々に浸透していった。

A日本コロムビアが全国ご当地の依頼を受け、ご当地ソングとして制作、依頼地限定で発売した作品の一つ。レコード番号PR-1795は、プライベート(ご当地)版であることを示している。制作にかかる経費等はご当地が負担されたものと思われる。
 なお、帝釈峡音頭は昭和33年(1958)6月17日に、帝釈峡小唄は同年6月23日に録音されている。なお、帝釈峡小唄の作詞のいきさつは不明である。(日本コロムビア お客様相談係談)

B帝釈峡音頭は現在も盆踊りや祭りで踊られているが、帝釈峡小唄はお座敷小唄なので踊り継がれておらず、踊れる人はきわめて少数である。

7.白鳥省吾と倉田百三

 広島県庄原市出身の作家 倉田百三は、吉川英治氏の依頼を受け、白鳥省吾と一緒に昭和10年(1935)8月11日から一週間にわたり、岩手県宮古・釜石・大槌等で巡回講演をしている。(佐藤吉一氏談)

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 それでは、若き日の島倉千代子が歌う帝釈峡小唄をお聴きください。


[ YouTubeで再生 ]

 このような経緯を経てレコード制作につながった「帝釈峡小唄」を広く世に知らしめるとともに、帝釈峡の素晴らしさを高く評価した詩人 白鳥省吾の存在を永く後世に伝えていくべく、和田匡弘先生を中心に歌碑の建立を計画中です。私の勤務先でもその趣旨に賛同し、歌碑の石材としてフズリナの化石を含んだ黒石灰石を提供することとしています。(耐久性に問題があり、道後山産の石材に変更となりました)
 歌碑建立実現に向けて、帝釈峡を愛する多くの皆様のご賛同とご支援をいただければ幸いです。

 以上、郷土史秘話ヒストリア 『詩人 白鳥省吾と帝釈峡小唄の誕生』の回を終わります。YHK・・・


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